選択の人生

人生において、決断する場面は必ずやってきます。

わたしの場合、それは義務教育が終わってからやってきました。

 

兄、姉、わたし、と三人兄妹の末っ子として生まれたわたしは、物心がついた頃より上の兄妹に倣って生きてきました。

おもちゃや服などは上からのお下がりをもらうことが多かったですし、母親が買い物の時に一人ひとつおやつを買ってくれると言った時は「これが美味しいからこれにしたら?」と兄に勧められたものを手にとっていました。

いま思えば、3歳年の離れた兄は少しずる賢く、自分が2番目に欲しいものを妹に買わせていたのです。

食べ物も、マンガも、音楽も、クリスマスプレゼントもすべて勧められたものを買っていました。

親に買ってもらったもののほとんどは兄に取られましたが、例えそれが手元に残ったとしても自分が欲しいものではないからか、物を大切にしない子供でした。

成長していくにつれて、わたしにも好きなことが出来てきましたが、それもやはり上の二人の影響が強く、兄の影響でマンガが好きになり、姉の影響で塗り絵や、絵を描くことが好きになりました。

そんなわたしを見て、周りの大人たちはみんな「将来は漫画家だね」と口をそろえて言っていました。

特に将来、何になりたいだとか考えたこともありませんでしたが、周りから聞かれればなんとなく「漫画家」と答えるようになりました。

もちろん、漫画家になりたいと思ったことはありません。

小学校、中学校はすべて周りに合わせて生きていました。

 

義務教育が終わり、初めて選択の時がやってきました。

高校選びです。

兄は家から遠い高校を選び、通っていましたが、出席日数が足りずに留年し、結局は退学になりました。

姉は勉強するのが嫌で、ほとんどをアルバイトと趣味に費やし、通信制(単位制)の学校へ月に何回か通っていました。

親からは上2人のことと、金銭面の事情もあり、「公立高校へ進んでくれ」と言われていました。

わたしは正直、何も考えずに生きてきたので、「自分の行きたい公立高校へ行っていいよ」と言われた時は突然見放されたような気分になりました。

友人たちの中には、家庭の事情で高校には行かずに働く子や、将来なりたい職業のために専門学校へ進む子などがいました。

16歳の子が働けるの?専門学校??

周辺にどんな高校があるのかすら分からないわたしにとって、進む道が決まっている子たちがとても不思議でした。

だって、『職業体験』などで職業を体験したことはありますが、その職業に就くために何をするべきかを授業で習った記憶がありません。

かと言って、自分が何になりたいのか、誰になにを相談すればいいのか、まったく分かりません。

自分の人生なのに”とりあえず”自分の学力で行けて、家から通える公立高校を選びました。

決め手は友人が口にした「制服が可愛くて有名」でしたが、実際自分が着るまで制服が可愛いかどうかなんて意識したことはなく、そいえばそう言われていたな、という程度でした。

 

高校生活は人見知りな性格もあり馴染むのに時間がかかりました。

馴染んできた頃にクラス替えがあります。中学の頃と違って人数が多い分、仲のよかった友人たちと同じクラスになれず、また一から築く人間関係がとても嫌だったのを覚えています。

中には仲のいい友人とまた同じクラスになれた子もいるので、一年生の時よりも輪に入るのが難しく感じました。

この頃からわたしは学校に行くのが嫌で遅刻と欠席が増えました。新しいクラスで新たに仲良くなれた子もいましたが、自分自身もはっきりとした理由はなく、ただただ学校に行きたくありませんでした。

三年生になると、文系と理系でクラスが別れるのですが、わたしは文系を選択しました。

しかし人数の関係性で、7クラスあるうちの1クラスは文系と理系が合体したクラスとなりました。

クラスの学力平均を合わせるためでしょう、合体クラスに入れられた文系は低空飛行な学力の者ばかりで、言葉は悪いですが世間一般的に『素行不良』と呼ばれるような校則無視の派手な髪、改造制服を着た人たちがほとんどでした。

不登校で赤点ばかり取っているわたしも合体クラスでした。

文系と理系が混ざった教室の空気はいつもどこかギクシャクとしており、居心地は悪かったです。

理系と文系がそれぞれ別れて授業を受ける時は文系の教室には10人も人はいません。静まり返っているので隣の教室から聞こえてくる楽しそうな声が少し羨ましかったです。

 

そして、わたしが人生で一番の決断を迫られた時。

高校を卒業したあとの進路です。

高校三年生にもなるとさすがにほとんどの人が自分の道を決めていました。

「将来、保育士になりたいから××大学へ行く」

「ピアノの先生になりたいから音大へ行く」

中には「なりたいものがないから無駄にお金をかけて大学へ行かずに就職する」という友人もいました。

 

わたしは親から「普通の4年制大学に進むなら学費を全額負担してあげるが、それ以外は一切援助をしない」と言われていました。

いま振り返ってみれば、なりたい職業もなかったわたしは大学に行きながら色々な経験をしてやりたいことを見つけるか、そのまま就職するのがいい選択だったのではないかな、と思います。

しかし当時は、これ以上勉強をするのが本当に苦痛で、受験やテストを二度と受けたくない気持ちがありました。

かと言って就職し、いきなり大人たちに混ざって毎日週5日フルタイムで働くのは不安でした。『学生』ではなくなることも嫌で、少しでも長く学生でいたいと思っていました。

 

たくさん悩みましたが、いくら考えても答えは出ません。

自分が実際に経験したことがないのに、自分に合った未来を決めるなんて出来ませんでした。

もしかすると勝手に苦手だと思っていたことが一番自分に合っているかもしれない。

得意だと思っていること以上に得意なことが他にあるかもしれない。

 

だけど進路提出の期限は待ってはくれません。

自分自身なのに自分のことを理解するのがどうしてこんなに難しいんだろうと思いますが、他人がわたしのことを理解することはもっともっと難しいことだと思います。

 

進路提出の期限が迫り、不安と焦りの中で悩んだ結果、わたしは小さい頃にすり込みのように言われてきた『漫画家』になると決めました。

小さい頃に「絵が上手だね」と褒められた嬉しい記憶がフィルターを掛けて、漫画家という職業が自分の中で大切なものとして残っていたのだと思います。

しかし、漫画を描くのが好きだから漫画家になりたい、という気持ちはありません。本格的に漫画を描いたこともありませんでした。

 

急ぎマンガ科のある専門学校の資料を取り寄せて、いくつかの専門学校を調べていく内に、漫画風の絵柄でイラストを描くという『コミックイラストレーター』の存在を知りました。

主な仕事はライトノベルなどの挿絵を描いたりするのですが、漫画家よりも興味が沸き、コミックイラストレーター科がある学校に進学を決めました。

二年制のところが多い中、珍しい三年制の学校です。

親からは猛反対されました。

なぜなら奨学金を借りて学校に通うのですが、学費が非常に高いからです。

それでも楽しそうな学校を見つけて夢見る夢子ちゃんなわたしは親の反対を押し切り、祖父母や親戚たちからの「最後までちゃんと通いなさい」という言葉を受けて入学しました。

 

悩んで、迷って、苦しんで、高い学費を払って入学した学校。

理由はたくさんありますが、簡単にいうとついていけませんでした。

わたしは入学して一年も経たないうちに学校に行かなくなりました。

学費を払い続けるのももったいないので、すぐにでも辞めたい気持ちはありました。

母親と学校の先生に相談した結果、「途中で辞めてしまうと経歴にキズがついて就職に不利になるから卒業はする」ということになりました。

一年生の単位は取れていたので、残りの二年間は家で数枚自由に絵を描いて提出しただけで単位をもらえて卒業できました。

経歴に学校名を書くと「絵を描けるんだ、すごいね」と必ず言われますが、わたしはただただ学校にお金を寄付しただけの奴なのです。

 

たくさんの時間を掛けて悩み、自分で決めた人生なのに、決断から逃げるのは一瞬です。

だけど逃げることがすべて悪いことだとは思いません。

実際に経験してみて違うと思えば、また別の道を悩んで決めればいい。

結果はどうであれ、少しでも『やってみたい』と思った気持ちは、実際に経験してみなければ消化されない。どしてその経験は自分の中で『後悔』にはならないようにわたしは思う。